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著者:養老孟司    角田光代
芙桑社 2008年9月1日 発行

脳あるヒト心あるヒト
この本を紹介したいと思ったのは仕事で中国へ行っている時、20代、30代、40代、50代、60代の技術者が1つ屋根の下(部屋ですが)で協調しながら、「40−50代」と「30−20代」の会話(コミュニケーション)に感じた違和感や不快感を感じ取りながら、自らの業務を進めて行く時、この本に触れた。 若い世代の”言葉使い”、”しつけ”に限らず「世代間のかみ合い」のことが社会の中で大きな関心事であったことを再認識したからです。 この著書に触れ、ある種の「爽快感」を感じたからかも知れません。 団塊の世代の子供に当たる若い世代に対する”責任”は大いにあるのかもしれないし、また、この世代と接すること、教えることのマネジメントを進めるにあたってのヒント、何かが彼らの”成長”の推進剤になるのかを考えさせる一文に思えたからです。 ある本にあった、”仕事の報酬は、金銭にあらず、質の高い新たな仕事、金銭は後から付いてくる。給料が安くても魅力的な仕事を任されている人は、辞めたりしない”。高度成長時代に入ったと言われている中国に行ってみて感じたことそれは、戦後の高度成長期の日本人の勤勉さを中国には感じない。新しいこと、未踏の事に情熱を傾けられる”勤勉さ”は無い。GDPで日本を抜いたとしても、一人当たりの総生産は、決して中国は制度を超えて日本の様な成長は出来ないだろう。 これから日本を背負っていくだろう”志の人(若い世代)”にこの勤勉さを忘れてもらいたくない、日本人の持つ”気質”を思い出し、感じて貰いたいものだと最近思う。



 養老孟司さんへ

 目にものを言わせる社会

 レジやATMの順番待ちの列に、フォーク並びという並び方がある。
窓口ごとに列を作るのでなく、一列に並んで、空いた場所に進む並び方である。
これを知らないで、会計中の人のすぐ後ろについてしまい、
一列で待っている人たちから大非難の視線を浴びたことが、幾度かある。
この時すごいと思うのは、誰も言葉を発しないこと。
「こちらに列がありますよ」と誰も発語せず、むーんとにらむ。
空気の振動で、間違っている人に間違っていることを教えようとする。

 フォーク並びだけではない、どんな状況においても、
日本人は見知らぬ人に向けてめったに発語をしない。
人とぶつかっても、足を踏んづけでも、せいぜいが小さな黙礼。
ふだんはこの沈黙に慣れているし、私もまためったに発語をしないのだが、
異国を旅して帰ってくると、ほんの数日、
日本特有の沈黙が少し不気味に思えることがある。

 私たちはどんどん言葉に頼るようになり、言葉を信じるようになり、
口先優先の社会に生きていながら、日常の、ほんのささやかな場面においては、
その言葉を決して使おうとしない。
ぶつかって「すみません」と言ったり、券売機の使い方がわからず
まごついているおばあさんに「手伝いましょうか」と言ったり、
間違って並んでしまった人に「こっちが正しい列ですよ」とは、決して言わない。
目線や態度やその場の雰囲気で、謝罪を伝えようとし間違いを訂正しようとする。
空気を読むことが、これほど強要されている国といぅのは、
とても珍しいのではないかと思う。

 けれどもしかしたら、言葉へのむやみな信頼こそが、

この不気味な沈黙を作っているのかもしれないとも思う。
もしこの社会で使われている言葉が複数であれば、

あるいは異言語が入り交じっていれば、

私たちは意志を伝えるために発語しなくてはならないだろう。
感情より言葉が先にあり、それはみな共通で、
だからこそ言わんとする言葉は言わずとも正しく伝わるはずである、という信念を、
今私たちは無意識に持っているのではないか。

 肩がぶつかっただけで、人が人を殴ったり、
時に死なせてしまったり、というニュースを目にするたびに怖くなる。
言葉の通じない人たちの苛立ち、すれ違いとはまったく異なる種類の、
言葉に対する圧倒的な信頼が、
ねじまがって起きたようなことに思えてしまうのである。

角田光代



 角田光代さんへ

 適切な発言は難しい

 角田さんの文章を読んでいて、言葉に対する鋭い感覚にいつも驚く。
私はやっぱり理科系で、言葉を道具としてしか、見ていないところがある。

日本人が公の場で口を開かないのは、世界でも特異だということは、
外国でもよく知られている。
大学でいうなら、学生はほとんど質問をしない。
ある先生が一計を案じて、ケータイのメールで質問しろと言ったら、

たちまち多くの質問が出たという話を聞いた。
人前でロを開きたがらないのはなぜか、あれこれ考えたこともある。

一つには、敬語という面倒がある。−丁寧な言葉遣いで、しかも率直にものを言う。
これが難しい。丁寧ということは、
しばしばもってまわった言い方をするということで、それだと急場には間に合わない。
慇懃無礼という言葉もある。
レジの列に並ぶ前項の例でも「あのー、失礼ですが、
並ぶ場所が違っておられるようなんですが」などと、悠長に言っていられない。
そうかといって、「場所が違うよ・バカ」といきなり言うわけにもいかない。
相手と自分の社会的地位、その上下なり間隔なりが明瞭である時にだけ、
日本語は上手に使えるのである。

外国語でも当然それはあると思うが、日本語は敬語が特にやかましい。
学生が質問をしないのは、仲間と話す時と先生と話す時とで、
言葉遣いを変えなきやならないという面倒が大きいのだと思う。
今の若者は敬語をあまり使うことがないのではないか。
ある理系の研究所では、所内で英語しか使わないと決めたという。
外国人が多いということもあるが、日本人同士でも、英語を使えば敬語の面倒がない、
学術上の討論がしやすい、というわけである。

角田さんは言葉に対する過度の信頼を問題にした。
「言葉へのむやみな信頼こそが、この不気味な沈黙を
作っているのかもしれないとも思う」と書いている。
言われてみると私は、あまり言葉を信頼していない。
そりゃそうで、何しろ一億玉砕、無敵皇軍で育てられ、
ある日突然、平和憲法、マッカーサー万歳だったから、当然であろう。

それだけではない。
理科系の専門分野のことは、ほとんど言葉で説明する意味がない。
解剖を言葉で説明しても意味がないし、
屋久島のヒゲポソゾウムシはロが長いんだよと言っても、
何人がその意味を理解するだろうか。
だから私はごく一般的なことしか、ふつうは述べようと思わない。
言葉とは、そういうものでもある。適切な発音は確かに難しい。

養老孟司


 角田光代さんへ

 違いのわからない人たち

いつも買いものをしているスーパーの雰囲気が変わった。
角田さんはそれに気がついて、何だか買いものをするのがイヤになったと書かれた。

そういうことは、よくあると思う。
それを私は感性と呼ぶ。感性は日本的な表現、外国語にはあまりないような気がする。
つまり雰囲気が変わったことを、何となく「感じる」。それができる能力である。

それができない人を鈍いと言う。別に鈍いのが悪いわけではない。
スーパーなら、必要なものを買いに行く所である。
それなら、品物がちゃんと手に入ればいい。そう思う人もいるはずである。

角田さんの話を受けて、私の言いたいことは単純である。
現代人は鈍い。それだけである。
難しく言うと感性が鈍磨している。
「違いがわからない」のである。
店員の言葉遣いがどうであれ、客が必要なものを手に入れられるなら、
それでいいじゃないか。そのどこに文句があるんだ。
そう考えた方が今の商売は成功する。
我々はひたすら、そういう社会を作ってこなかったか。

チェーン店がどこにでもある。
それはそれでいい。
しかしどこもかしこも同じというのは、私は嫌いである。
だからソメイヨシノは嫌い。山桜は好きである。
時期遅れの五月に満開になってたりする。自分を見るようで嬉しい。
六〇歳代の半ばでやっと本が売れた。
今ごろ満開ではどうにもならない。人生、もうほとんどお終いではないか。

そういうと、時期遅れでも売れりやあいい、今の人はそう言うであろう。
でも古人は、ものには時期というものがある、とも言った。
日本のように四季折々に、様々な風景を見る土地は、世界でもまれである。
それが養ったのが、豊かな感性であろう。
人間は微妙な差異を見分ける能力を持っている。
でも、現代生活では、それを発揮する所がない。むしろ「どこも同じ」にしてしまう。
その方が「合理的だ」と信じている。
世界中に通用するだろうと言うので、何しろ小学生に英語を教えるんだから。
そういう人が育って、上手に敬語が償えますかしらね。
敬語なんて面倒で不合理だから、英語で喋ろ。当然そうなるのと遠いますか。

なぜそうなるか。
「違いを感じないから」に決まっているでしょう。
本人が感じていないことを、気づかせるのは容易ではない。
そういう鈍感な人たちばかりになる世の中を想像して、
角田さんは「怖いような気持ちになる」と書かれたのであろう。
同感である。

養老孟司